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超主観空間 / Ultrasubjective Space

2001

身体がある世界と作品世界との境界がない平面

レンズやパースペクティブは、鑑賞者の肉体がある空間との間に、境界を生む

レンズによる写真や映像、西洋のパースペクティブによる絵画など、レンズやパースペクティブによって2次元化された空間は、写真や絵画の平面が境界となり、その平面の向こう側に出現する。つまり、鑑賞者が身体がある空間と、レンズやパースペクティブによって切り取られた作品空間の間には、境界が生まれ、分断してしまう。

超主観空間は、境界を生まず、鑑賞者の肉体がある空間と連続する

近代以前の東アジアの古典絵画は、一般的に観念的だとか平面的だと言われているが、その絵画、レンズや西洋のパースペクティブとは違った論理構造によって2次元化された空間だったのではないかと考えている。そして、その論理構造で2次元化された絵画の平面は、絵画が表す世界(作品空間)と鑑賞者の身体がある空間との間に境界が生まれない平面ではないかと考えた。 チームラボは、デジタルという新たな方法論によって、その論理構造を模索した。具体的には、コンピュータ上に3次元で作品空間を作り、古典絵画の平面に見えるような3次元空間の2次元化の論理構造を探した。もっと言うと、鑑賞者の身体がある空間との間に境界が生まれない作品空間の2次元化の論理構造を探した。 この論理構造や、この論理構造に基づいて2次元化された空間を、超主観空間と名付けた。超主観空間の平面は、境界とならず、超主観空間よって切り取られた作品空間は、鑑賞者の肉体がある空間と連続する。さらに、レンズやパースペクティブによって2次元化された空間と違い、超主観空間は、視点が移動でき、中心がなく、分割や統合、もしくは折ることができることを発見した。

超主観空間は、身体を取り戻し、身体を自由にする

超主観空間では視点が移動できる。つまり、レンズやパースペクティブでは、鑑賞者の身体は、固定されているが、超主観空間では、鑑賞者は身体を取り戻し、身体を自由にする。鑑賞者は歩きながら、もしくは、身体そのもので作品世界を認識することができる。超主観空間は、中心がなく分割ができるということは、作品平面の全体を見て、作品空間全体を見ることも、作品平面の一部分だけを凝視して、その部分だけの作品空間を見ることもできるということだ。言い換えるならば、同じ作品の平面に対して、複数の鑑賞者が自由にそれぞれの位置から、自分を中心にして部分的に作品平面を見て、作品空間に入ることができるということだ。さらに、超主観空間を統合できるということは、作品間の境界をなくし、異なる作品空間を平面上で自由に統合し、新たな作品空間をつくることができる。そして、超主観空間が折れるということは、作品の展示空間を自由にすることができる――こうした考えが生まれてきた。(図1、図2)。

図1(左) :3次元空間上に立体的に構築した作品世界を、西洋の遠近法によって2次元化した空間(『花と屍 剝落 十二幅対 繁栄と厄災』より)
図2(右):図1と同じ3次元空間を「超主観空間」によって2次元化した空間(『花と屍 剝落 十二幅対 繁栄と厄災』より)

東アジアの古典絵画のように世界が見えていた

レンズによる写真や西洋の遠近法で描かれた絵(図3)を簡略化すると、撮影者や描き手の視点(図4、青い人型)を原点として、扇状の空間が見ていることになり、その空間が2次元化されている(図4)。そして、鑑賞者は描き手の視点で世界を見ていることになる。 さて、人々が東アジアの古典絵画(図5)のように世界が見えていたと仮定し、描き手を図6の青い人型とすると、図6の水色の部分が見えていることになる。 このように世界が見えるはずがないと思うだろうが、そもそも肉体の目が瞬間的に見える範囲は、自分が認識しているよりも、極めて狭く、フォーカスは極めて浅い。 ではなぜ、もっと広く空間が見えているつもりでいるのか? 人間には時間軸があり、眼球を動かすことができるし、目のフォーカスも動かしている。狭くて浅いフォーカスで得た多くのイメージを脳で合成し、空間を見ているのだ。つまり、空間を見るということは、ある程度過去までさかのぼった狭く浅い部分的な空間を2次元化した平面の集合を論理的に再構築して脳に空間を作り上げているとも言える。そして、肉体で認識した空間とは、レンズで空間全体を捉えた時の部分よりもずっと拡大された部分の集合の再構築であり、集合である以上そこには時間の概念が含まれる。 現代の人々は、写真や動画などレンズで切り取った世界を常に見ているため、写真や動画などレンズによって2次元化された平面に違和感がないかも知れないが、人は首を振るし、移動もする。合成(再構築)に使うために過去にさかのぼる時間は増えるかもしれないが、レンズや遠近法とは違った論理構造で脳内において合成していたと思えば、図6のように世界を認識していたとしても、不思議ではない。
図3(左):モナ・リザ[© RMN-Grand Palais (musee du Louvre) / Michel Urtado / distributed by AMF-DNPartcom]
図4
図5(右):法然上人行状絵図(知恩院蔵)
図6

絵を見ながら、絵の中に入り込める

写真や西洋の遠近法による絵画を見ているとき、その絵の中の人物(図7、赤い人型)になりきると、見える風景は変わる。正面を向いた肖像画の人物になりきれば、鑑賞者がいる世界が見えることになる(図7、ピンク色の部分)。 図8のように世界が見えていたと仮定する。鑑賞者は絵画を見て、同時に絵の中の人物(図9、赤い人型)になりきると、図9のピンク色の部分が見えている部分になる。つまり、絵の中の人物に見えている風景は、絵とほとんど変わらないことになる(図9)。絵を見ながら、絵の中の人物になりきったとしても、見えている世界は絵と同じため、そのまま同じその絵を見続けることができる。つまり「絵を見ながら、絵の中に入り込む」ことができ、鑑賞者は鑑賞者のまま絵の中を自由に動き回ることができるのである。
図7(左)、図8(中央)、図9(右)

鑑賞者中心に鑑賞できる

カメラで対象物の近くに寄って撮った写真をつなぎ合わせてひとつの全体写真をつくったとする(図10)。しかし、それはカメラで遠くから対象物全体を写した写真(図11)とは別のものになってしまう。レンズや西洋の遠近法では、近くの視点で空間を2次元化した(対象の空間のごく一部が写っている)平面をいくつかつなぎ合わせて(図10)、遠くの視点で空間全体を2次元化した(空間全体が写っている)平面(図11)を作ることはできない。 「超主観空間」では、空間の部分部分を超主観空間で2次元化した平面をつなぎ合わせた平面(図12)と、その空間全体を超主観空間で2次元化した平面(図13)は、論理的に同等になる。それは「自由な位置で鑑賞者中心に鑑賞できる」ことを意味する。つまり、ある絵画を、絵画全体を見える位置から見ているときには、その絵画が表している空間全体の中に鑑賞者たる自分もいることになるだろうし、絵画に近付いて、絵画の一部しか見えない位置から凝視すれば、その凝視している絵画の部分が表している空間の中にいることにもなりうる(図12)。縦横無尽に好きな場所から絵を鑑賞できるということである。そして、それは「視点が限定されず、視点の移動が自由」であることを意味する(図13)。 古典絵画の絵巻やふすま絵は、こうした特性によって生まれたのではないかと考えている。絵巻は、机の上などに置いて、左手で新しい場面を繰り広げ、右手で巻き込んでいきながら、自由にスクロールしつつ見ていく。つまり、超横長の絵を好きなように部分で切り取って見ているともいえる。そして、ふすま絵は、動くことが前提のキャンバスの上に描いている。
図10:レンズや遠近法で空間の一部を2次元化した平面をつなぎ合わせた平面
図11:レンズや遠近法で空間全体を2次元化した平面
図12:「超主観空間」で空間の一部を2次元化した平面をつなぎ合わせた平面
図13:「超主観空間」で空間全体を2次元化した平面

折ったり、分割したり、つなぎあわせたり

また、「超主観空間」の平面は、自由に「分割」できることを意味する。分割した絵画を見れば、その部分が表している空間の中にいることになるからである。分割できるということは「超主観空間」によるの平面を「折る」ことも可能にする。写真や、遠近法の絵画を「折ったり、分割したり」するなんてありえないが、古典美術の屏風は、折る前提のキャンバスであり、ふすま絵は、分割することが前提のキャンバスとも言える。 そして、空間の部分を超主観空間で2次元化した平面をつなぎ合わせた平面と、空間全体を超主観空間で2次元化した平面は同等になるということは、超主観空間の平面は、自由につなぎ合わせる(統合する)ことができることを意味する。つまり、異なる作品空間を平面上で自由に統合し、新たな作品空間を自由につくることができるのだ。異なる作品空間は、境界のない新たな作品空間になる。

自分と世界との境界がない

人々の世界の見え方が、人々の世界に対するふるまいに大きな影響を与える。 現代の人々は、写真や映像などレンズで切り取った世界を常に見ているため、人々は、レンズで見るかのように世界を見てしまう。人々がレンズのように世界を見るならば、自分の身体と、自分が見ている空間が完全に切り分かれ、はっきりとした境界ができる。それゆえに、人々は、自分が世界から独立して存在できているかのような錯覚を覚える。 「超主観空間」で世界を見るならば、自分の身体と、自分が見ている空間には、境界が生まれず、身体と世界は連続する。そして、自分と世界との間に境界はなく、自分と世界は連続したものとして認識するのだ。

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ニュース

International Symposium of Seoul Art Space GEUMCHEONに、掲載。Oct 2011

情報化社会、テクノロジー、デザイン、アート、文化、そして産業

チームラボ代表 猪子寿之 0. Introduction チームラボ チームラボはプログラマ(アプリケーションプログラマ、ユーザーインターフェイスエンジニア、DBエンジニア、ネットワークエンジニア)、ロボットエンジニア、数学者、建築家、Webデザイナー、グラフィックデザイナー、CGアニメーター、編集者など、情報化社会のさまざまなものづくりのスペシャリストで構成される集団です。 情報化以前の時代は、テクノロジー、デザイン、アートというものは、はっきりと分かれていました。例えば、車だと、デザイナーが外側を、エンジニアがエンジンを、それぞれ独立してつくっていました。しかし、デジタル領域は、その境界が曖昧になります。iPhoneの例のように、あのインターフェイスは、どこまでをプログラマが、あるいはデザイナーがつくったのかわかりません。デジタルとは、何か?もともと人間にとっては、全ては情報でしかなかったのですが、デジタル以前は、情報を媒介するため、物理的な物質が必要だったのです。デザインにしてもアートにしても。その情報が、媒介する物質から、開放されたのです。媒介する物質が、デザインやアートとテクノロジーを分断していましたが、物理的な物質から開放されたので、境界線などなくなります。このように、情報化社会では、専門性は深くなるにもかかわらず、1つのものを創るときに、それぞれの専門性だけでは創れなくなっていきます。チームラボは、専門性の高い人間が、専門性の境界をまたいで、チームでものを創っていきます。手を動かすさまざまな専門職が集まって、互いの領域を曖昧にしながらものづくりをしています。 そして、創ること・そのプロセスの中から、新たな発見をし、その発見を、次の創ることにいかしていくことを、重要視しています。 わかりにくいので、いくつか、実際のプロジェクトや作品をご紹介します。1. プロジェクト早乙女太一☓チームラボ[吉例]新春特別公演「龍と牡丹」-剣舞/影絵- 北野武さんの映画にも出演された日本の俳優・早乙女太一さんの舞台を創りました。舞台というものが、デジタルメディアで、どのような新しい舞台になるか、というコンセプトです。この映像はYoutubeで公開したところ、220万以上のヒットになっています。このように、デジタル領域は、Webだけではなく、既存の全ての領域を新たな価値のものにしていきます。世界はこんなにもやさしく、うつくしい 壁に浮遊する書が、あなたの影に反応し、あなたを通して、書が持っていた世界が広がります。漢字一文字が持っている世界、書に込めた思い、そして、あなたの思いと、まわりのひとびとの思い、そういうものが重なって、世界が創られていくという作品です。影は、カメラに映った映像を画像処理して認識しています。人が介在するので、無限のパターンがあるため、動きを前もってアニメーションで用意するわけには、いかないので、スクリーンに映っている映像の裏側には、3D空間があり、花や木、雨や、風など、全ては、3D空間上で、物理演算で、リアルタイムに計算しています。 このように、表現、と、テクノロジーは、境界があまりにもなくなってきています。teamLabHanger 「チームラボハンガー」は、ハンガーを手に取ると、ハンガーに吊るされた洋服などの商品が実際にコーディネイトされたイメージがモニターに映し出されるという“インタラクティブハンガー”です。 実際の店舗において売上を伸ばすため、そして、店舗でのショッピングの体験をより、楽しいものにするために、開発した一種のデジタルサイネージ。「ECサイトにおいて衣料品を売るときは,コーディネイトされた写真を掲載したほうが売れる」という、ECサイトの制作や運営を請け負うことが多いチームラボのEC運営上の経験を現実世界にも反映しようという試みです。 AR(拡張現実)のように「iPhoneをかざす」というこれまでなかった新しい行為を、顧客に要求しません。顧客に新しい行為をさせるのはリテラシーを要求することになるからです。 「ハンガーを手に取る」という、その洋服をもっと知りたいと思ったときに、もともと行っていた行為をスイッチとし、より情報を加えたり、音がなったり、インタラクションがあることで、もともとの行為をさらに楽しくしています。 これは、「New Value in Behavior」、という、チームラボのデザインする時のコンセプトの1つ、「本来の目的のためにある行為、その行為そのものに、新しい価値を加えよう。本来の行為そのものをインターフェイスにしよう。」という考えに基づいています。 これは、「スーパーマリオ」で気が付き,茶の湯で確信した考えです。スーパーマリオは,それ以前のゲームに比べて、目的そのものは比較的どうでもいいもので,マリオを操作する,その行為そのものが、気持ちいいだとか、楽しい。つまり,なにかの目的のために行為があるのですが,目的をほとんど忘れるくらい、行為そのものを消費しています。こういった考えは,茶の湯を知ることで確信しました。 たまたま読んだ100年ほど前のお茶の本に,イギリスの茶と中国の茶と日本の茶について、3章に分かれて、書かれているのを見つけました。「イギリスと 中国の茶については,どのような淹れ方をすれば、そのような飲み方をすれば、お茶がおいしくなるかが示されていました。しかし,日本の茶について本の著者は『日本の茶は,おいしく飲むためにお茶を淹れるという目的をもはや忘れていて、「俺の淹れ方のほうがカッコイイ」とか「俺の入れ方は、宇宙につながれる」とか「より精神世界的に高度」だとか,そういったことを言い,普通に考えれば,すぐ飲んだほうがおいしいはずなのに,その前に茶碗を回したほうが美しいなどとする。「そこでは本来、目的のためにある行為,その行為そのものを楽しんでいる。日本にはそういう文化があります。2.情報化社会 情報化社会では,別の変化も起こっています。言語化できる領域の共有スピードが速すぎて,もはや言語化できる領域は、競争で優位に立つ必要十分条件にはならないと考えています。情報化社会前は、テクノロジーは国によって格差が発生していました。例えば製鉄技術は,先進国とそれ以外で技術格差が存在していました。しかし、テクノロジーは、論理化でき、言語化できるので、技術格差は、なくなっていきます。 文化依存度が高くて,理由が、言語的に説明できない領域――例えば『カッコイイ,カワイイ,気持ちいい,面白い』という領域は、方法論が、共有されにくい。そこに、先進国の優位性があると考えています。 文化依存度が高い領域のほうが差異が生まれやすく,結果的に競争力につながっていきます。つまり,文化依存度の高い領域をテクノロジーで再構築したような産業が,社会インフラの高い先進国がこれから世界の中でやっていける産業なのではないかと思っています。3.アート そういう思いの中で、「では,自分達の文化はどのようなものであるか」ということに、強い興味があります。「文化をひもとくこと、つまり、文化の裏側にあるもの。それは,世界をどのように捉えているのか?」そのようなことを知りたいと思い、アート作品を作っています。アート作品を創るプロセスで、そのようなことが発見できると思ったからです。 僕は、日本人なので、日本のこと中心の話になりますが、もしかしたら、東アジアに共通する話なのかもしれません。 西洋文明が入る以前、日本は江戸末期(19世紀後半)まで鎖国をしていたので、人々は、今とは違った風に、世界を捉えていて、結果、今とは違った風に世界が見えていたんじゃないか?という思いがあります。 しばしば日本画については,日本には西洋の遠近法(パースペクティブ)がなかったので平面的に描いていたのではないか,といわれます。だが,当時の人々は、日本画のように世界が見えていたから,そのとおりに描いたのではないだろうか?と考えています。そして、当時、日本画を見たら、そこに空間を感じていたのではないだろうか。現代人が写真という平面を見ると,そこに空間を感知するように。つまり、日本画の平面は、西洋のパースペクティブとは違った論理が発達した空間だったのではないだろうか?と、チームラボは考えています。 3次元空間上に立体的に構築された世界を、日本の先人達の空間認識を再現するように映像化するというプロセスで、チームラボは、いくつかの映像作品を創っています。そのプロセスを通して、何か発見できるのではないかと思っているからです。百年海図巻 「百年海図巻」は2009年の作品です。映像の尺が、100年のバージョンと、全長20m超、映像の尺が10分のバージョンがあります。 「日本にはパースペクティブとは違う空間認識の論理構造が培われていて,それが日本画を産んだ」という仮設をもとに、この作品はコンピュータ内部にいったん3次元空間を創り、その空間に物理演算で創った波を創り、それをチームラボが考える日本の空間認識を再現した論理構造で映像にしています。 日本の空間認識を再現した映像には、パースペクティブによる映像、つまり、ビデオカメラで撮った映像とは違った長所がたくさんあります。例えば、特定のフォーカス(焦点)がなく,鑑賞者の場所が特定されません。例えば,映画であれば映画館の真ん中が一番良い席で,そこから離れるほど悪い席になっていきます。しかしフォーカスを持たない この映像は、鑑賞者の場所に左右されないので,鑑賞者は自由に歩き回れます。 また,映像の投影面が平面でなくても構いません。百年海図巻は映像が途中で90度曲がっていますが,現場で見るとほとんど気になりません。これは,屏風に描かれた日本画を想像すると分かりやすいかもしれない。 もちろん短所もあって,客観的/物理的な大きさといった情報は,失われてしまいます。生命は生命の力で生きている 村上隆さんのカイカイキキギャラリー台北で今年4月に行ったチームラボ「生きる」展で発表して、今年の第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ関連企画展「FUTURE PASS」や、アートバーゼルにも出品した作品です。 この作品も同じように,3D空間を日本画のように射影しています。 静止画にすると日本画のように平面的に見えます。ところが映像がアニメーションになったとたん,平面的なはずの日本画が立体的に見えます。 パースペクティブが入る以前の日本人の目には,日本画は立体的に見えていたのではないのだろうかと思えます。レイヤーとしての空間表現 「生命は生命の力で生きている」は,オブジェクト(この場合は3次元的に書かれた「生きる」という文字)に対し,視点がとても近い。一方,「花と屍」(2008年)では広く空間を捉えています。この二つは同じ論理で作られているのだけれども,「花と屍」はレイヤーを使って描かれているように見えます。 実際「花と屍」を見た人は,しばしば「すごくたくさんのレイヤーを使って描いていて,大変ですね」といわれます。創り手としては、空間から創っているので、そう思っていなかったのですが、冷静に作品を見直すと,やはりいくつかのレイヤーで描かれているように見えます。花と屍 これはつまり「日本的な空間認識だと,近くのオブジェクトは立体的に見えるが,空間全体を捉えると,空間がレイヤーとして見えやすいのではないか」と考えています。日本人は,空間をレイヤーとして見ていたのかもしれません。レイヤーに見えていたからこそ,逆に,空間をデザインするときにも,レイヤーとしてデザインしたのではないかと考えています。 例えば、日本庭園は,レイヤーでデザインされています。一方,西洋の庭園はパースペクティブでデザインされていて,一つの視点から見たときに非常に綺麗に見えます。 西洋人は空間がパースペクティブに見えていたので,空間をデザインするときもパースペクティブなデザインをしたし,だからそうして作られた庭園は,移動するとしても奥行き方向への移動が前提になります。 日本人は,空間がレイヤーに見えていたから,空間デザインもレイヤーになる。そしてレイヤー式のデザインだと,横方向に移動しながら鑑賞しても美しさが保たれる、つまり「空間の認識の違いが,人間のつくるデザインに表れたのではないだろうかと考えています。スーパーマリオとドラゴンクエストに見る日本画 さて,レイヤーで表現された空間が横方向への移動に強いというのは,ゲームでも発見できます。スーパーマリオブラザーズというゲームは、初めて、横スクロールという概念を生んだゲームです。スーパーマリオのようなゲームはレイヤー式の背景を有しています。 これは,日本の伝統的空間美意識を,無意識のうちに受け継いでいたのではないだろうか。つまり,日本人が素直に横スクロールアクションをデザインできたのは、レイヤーでデザインされた空間がまわりに多く、それゆえに、人の導線が横に動くことが多く、そして、レイヤーでデザインすることで,少ない要素でも空間を認識できるということを,無意識のうちに感じていたのではないかと考えています。 また,「洛中洛外図屏風」にあるような大和絵が持つ美術表現は,「ドラゴンクエスト」の画面に見る美術表現と同一であると考えています。異なるのは,大和絵はオブジェクトの側面も描かれていることで,これは絵巻物のスクロール方向に合わせているのではないか、またドラゴンクエストのオブジェクトに側面が描かれないのは,左右両方にスクロールするためだと考えています。 スーパーマリオのステージ選択マップも,大和絵と完全に同じ論理構造を有しており、地面に対して水平に存在する橋と,垂直に存在する梯子が,事実上同じようなオブジェクトで表現されています。これは大和絵にとっては普通なことですが,西洋ではあり得ない空間表現です。「なりきり」を支えた日本の空間表現 西洋のパースペクティブは、描き手の視点(下図、黒い人型)を原点として,扇状の空間が絵に描かれています(注1)。絵の中に登場人物(下図、赤い人型)がいる場合,その人物になりきって考えると,見えている風景が変わります。肖像画であれば、絵を見ている人が見えることになります(注2)。一方、大和絵において視点という概念は弱く,空間の把握はパースペクティブとは大きく異なります。日本画に描かれている人が,その人のからの画像を描いても、ほとんどかわらないでしょう。 こんな空間把握が行われていたというと,そんな馬鹿なことがあるかといわれるかもしれませんが、パースペクティブもまた同じくらい不自然です。人の目の焦点は極めて狭く,極めて浅い。実際の人間の目は本来,写真やモナリザの絵のように,全部のディテールが一度にはっきりと見えたりしないのです。人間はタイムラインの中で目のフォーカスを急激に動かしています。狭くて浅いフォーカスの範囲を、脳で合成して、パースペクティブの絵のように見えているだけです。 つまり人間は目という貧弱なカメラで何枚も何枚も連続して自分の周囲を撮影し、そうして得られた大量の絵を一定の法則を使って脳内で合成し,パースペクティブの空間として理解しているのです。 さて,昔の日本人は,大和絵のように世界が見えていた(認識されていた)と仮定しましょう(注3)。そして今、大和絵の中に登場人物が出てきたとします。登場人物になりきったとき,パースペクティブと異なり、見えている風景はまったく変わりません。絵を見ながら絵の中の登場人物になっても、そのまま絵を見続けることができるのです(注4)。 ドラゴンクエストでは,キャラクターになりきってプレイします。主人公になりきっているから、経験値が増えるととても嬉しい。そして,主人公になりきっても絵が破綻しないのが、ドラゴンクエストの空間表現です。ゲームというインタラクティブで主人公を操作するというコンテンツと、先人が永年構築していった美術表現が、非常に相性が良く、その美術表現を無意識のうちに引き継いでいたから、多くの世界的ヒットを出せたのではないかと考えています。 西洋のパースペクティブでは、先に解説したように、絵の登場人物にはなりきれません。その結果、手だけ、ハンドルだけ、飛行機のコクピットだけ、といった表現になります。画面の中に「こちらを向いた主人公」を出してして、主人公になりきると、見える風景が変わってしまいます。 日本の美術表現が、ゲーム産業ときわめて相性がよかった、もっと正確に言うと、ゲーム産業では、日本の美術表現の強みを活かすことができていたときに、日本はゲーム産業で世界的なリードができたのかもしれないと、と考えています。 今後、いろいろな産業が生まれてきたときに、その産業と、自分達の文化との相性が良いとき、文化の強みが活かされたとき、その産業は世界で勝ち残る力を保持できるのではないだろうか?そんな風に考えています。

STUDIO VOICE に、掲載。Jul, 2012

ヴェネツィア・ビエンナーレ出展作品「生命は生命の力で生きている」について  猪子寿之(チームラボ)インタビュー

内容は、第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ関連企画展「FUTURE PASS」出展作『生命は生命の力で生きている』に関するもの。チームラボがアートギャラリーと関わったこと、書のモチーフを扱ったこと、日本の伝統的モチーフをデジタルで再現したことの経緯など、普段あまり語られないアート論を猪子は語り、「(アートの付加価値は)究極に言うと、未来へのヒントだったり、新しい価値の提案だったり、表現の提案だったり。未来の付加価値のヒントだったり、新しいマーケットのヒント」とコメント。「「チームラボ好きだから日本が好き」って思わせるのが目標」「僕らもそういう日本の産業に貢献するような存在になりたいって思うんです」という発言で記事は締めくくられています。