FEATURED WORKS
生命は結晶化した儚い光 / Ephemeral Solidified Light
teamLab, 2021, Interactive Installation, Sound: teamLab
光の結晶に触れると、見えている部分は、とぎれもなく流れ続けているものの一部だと気が付く。
生命は、はじまりもわからない過去から、一度もとぎれることなく流れつづけているエネルギーの連続体の中で、奇跡的に固形化された、儚い光の結晶となってあらわれる現象なのだ。
生命は結晶化したうごめく光 / Living Crystallized Light
teamLab, 2022, Interactive Installation, Sound: teamLab
人々は作品の中に入ることができる。人々が作品の中に身体ごと入ったとしても、作品は壊れず、作品の存在は維持され続ける。作品に触れると、見えている部分は、何の変哲もない水の一部だと気が付く。つまり、作品は作品自体で存在せず、環境がつくる特異な現象が作品の存在である。
鑑賞者が動くと、作品は出現する場所が変わっていく。鑑賞者が見ているその作品は、その鑑賞者にしか見えていなく、隣の人からは、違う場所に、違う色の作品が出現している。つまり、見えているその作品の存在は、環境が生み出し、鑑賞者の中にだけ存在する。
Environmental Phenomena
チームラボは、環境現象という考えで作品の存在をつくることを模索している。それは、作品は作品自体で存在せず、環境がつくる現象が作品の存在をつくるという考えだ。
石ころや、これまで人間がつくってきたものは、それ自体で安定的な構造をもつ。そのようなものとは違い、環境によって作品の存在をつくる。
環境が現象を生み、環境がその現象の構造を安定させ、安定した現象が作品の存在である。
環境現象は、これまで存在の構造を担っていた物質から解放され、日常的にありふれた空気や水、光なども環境によって特異な現象となり、その現象がアートの存在となるだろう。そして、その存在の境界は曖昧で連続的である。人々が作品を壊したとしても、環境が維持される限り、作品は存在が維持される。逆に、環境が維持されない時、作品は、消えてなくなってしまう。
人々の意識は、存在そのものから環境に広がっていくだろう。
石ころは、外界から遮断され密封された箱に入れても存在し続けるが、生命は、そのような閉じた箱に入れられると存在を維持できない。
生命もまた、環境によってつくられている存在である。
生命は、開いた世界の中で、連続する流れの中に生まれる奇跡的な現象かもしれないのだ。
我々の中にある火花 / Cognitive Solidified Sparks
teamLab, 2022, Interactive Digital Installation, Sound: teamLab
私たちは、見ている世界を認識しているのではない。私たちは、認識している世界を見ている。
無数の線の集合による球体。
細い光の線は、中心から放射状に無数に広がり、球体を形作る。光源は動かないが、無数の線はうごめき続ける。
球体には境界面がなく、作品と身体との境界の認識は曖昧である。球体に触れようとすると、球体は反応するが、物理的な境界面はないため、手は球体の中に入る。
この球体は、何か?線はなぜうごめくのか?
我々の世界は、我々の中にあるのだ。
そして、この線群の球体を認識したならば、認識している世界は広がり、日常においてもいたるところでこの線群の球体を見ることになるだろう。認識している世界が変わると、見えている世界が変わっていく。
我々の中にある巨大火花 / Giant Solidified Spark
teamLab, 2022, Digital Installation, Sound: teamLab
無数の光線の集合による球体。
細い光の線は、中心から放射状に無数に広がり、球体を形作る。光源は動かないが、無数の線はうごめき続ける。
球体には境界面がなく、作品と身体との境界の認識は曖昧である。球体に触れようとすると、物理的な境界面はないため、手は球体の中に入る。
この球体は、何か?線はなぜうごめくのか?
我々の世界は、我々の中にあるのだ。
そして、この線群の球体を認知した後、認知している世界は広がり、世界中のいたるところでこの線群の球体を見ることになるだろう。
質量のない太陽と闇の球体 / Massless Suns and Dark Suns
teamLab, 2022-, Interactive Digital Installation, Endless, Sound: Hideaki Takahashi
私たちは、見ている世界を認識しているのではない。私たちは、認識している世界を見ている。
無数の光の球体群。人々が光の球体に触れようとすると、強く輝き、周辺の球体も次々と呼応し連続していく。
視野を広げてじっと見ていると、闇が凝固したかのような闇の塊の球体群も現れはじめる。
しかし、これらの光と闇の球体群は存在しない。闇の球体群は、カメラにすら写らない。
光の球体表面にガラスなどの物質は何もなく、この球体は光だけでできている。物質的な境界面はなく、球体と身体との境界の認識は曖昧である。
しかし、この宇宙では、光は凝固せず、光だけで球体状の塊になることはない。つまり、この光の球体は存在しない。
この球体は、物理世界には存在せず、認識世界に存在する彫刻「Cognitive Sculpture / 認識上の彫刻」。
マテリアルは、光と環境、そして身体と認識。体験者自らの動的な身体と認識によって形作られ、体験者自身の認識世界に出現し、存在する彫刻。
認識上存在する時、それは存在である。
そして、球体はそれ自体では認識世界にすら存在できず、環境が生み出している。環境がつくる現象が、作品の存在である。
存在とは何かを問う。