私たちは、見ている世界を認識しているのではない。私たちは、認識している世界を見ている。
無数の光の球体群。人々が光の球体に触れようとすると、強く輝き、周辺の球体も次々と呼応し連続していく。
視野を広げてじっと見ていると、闇が凝固したかのような闇の塊の球体群も現れはじめる。
しかし、これらの光と闇の球体群は存在しない。闇の球体群は、カメラにすら写らない。
光の球体表面にガラスなどの物質は何もなく、この球体は光だけでできている。物質的な境界面はなく、球体と身体との境界の認識は曖昧である。
しかし、この宇宙では、光は凝固せず、光だけで球体状の塊になることはない。つまり、この光の球体は存在しない。
この球体は、物理世界には存在せず、認識世界に存在する彫刻「Cognitive Sculpture / 認識上の彫刻」。
マテリアルは、光と環境、そして身体と認識。体験者自らの動的な身体と認識によって形作られ、体験者自身の認識世界に出現し、存在する彫刻。
認識上存在する時、それは存在である。
そして、球体はそれ自体では認識世界にすら存在できず、環境が生み出している。環境がつくる現象が、作品の存在である。
存在とは何かを問う。