人々が花に近づくと、花は散って死ぬ。砂に近づくと、降り注ぐ砂は割れる。
落ちていく砂の短い時間、花々の生と死が繰り返される長い時間、そして人々の身体が持つ時間。異なる時間が交差し、重なり合う。
この「超主観空間」によって描かれた花々の絵画空間は、レンズや単一視点の遠近法で平面化された画面とは異なる。
レンズや単一視点の遠近法による映像や絵画では、空間は画面の奥に現れ、そこに広がる空間と鑑賞者のいる空間は分断され、画面が境界面となる。そして、視点は一点に固定され、身体を失う。
「超主観空間」による画面は、私たちのいる場所と作品世界を隔てる境界ではない。作品世界は窓の外ではなく、作品世界は鑑賞者の身体がある空間と境界なく連続するひとつの場として現れる。また、前後左右すべての場所が視点になりうるため、視点は無限に存在し、鑑賞者は自由な身体を取り戻す。
鑑賞者は特定の一点に縛られず、身体を動かし、視線を自由に動かすことで、時間とともに変化していく作品世界をそのつど再構成し、自らの中に花々の絵画空間をつくり上げていく。そのとき、この作品は、鑑賞者がその絵画空間を歩く主観的・身体的な空間美術となる。